明智光秀と岐阜
歴史ファンの方、そしてNHK大河ドラマファンの方、そしてドラマで光秀を演じる長谷川博己さんのファンの方もみえるかもしれませんね。
私自身、大河ドラマのスタートが今から楽しみで、長谷川博己さんも好きな一岐阜県民です。
今回、天下のNHK大河ドラマの舞台が岐阜県であるということで、あらためてどんな史実をもとに語られ、
どんな旧跡が存在しているのか、皆さんと一緒に予習しながら大河ドラマを100倍楽しみたいと思い、このページを作ることにしました。
2020年(令和2年)のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公「明智光秀」のゆかりの地といわれる岐阜県。
イラストでもわかる通り、日本のちょうど真ん中に位置しています。
明智光秀は、生誕の地や亡くなる際の場所やタイミング、そして歴史的事件である「本能寺の変」を起こした動機においても、さまざまな説が存在しています。
それは四百年前の時代ということは勿論、歴史的に重要な人物との関わりが多く、さまざまな角度からの説が生まれたいうこともいえます。
現代のように、あっという間に各種メディアやインターネットで情報が広がる環境であれば、こうしたこともないと思うと、
ガラス張り過ぎる現代より、わからないというミステリーな部分すら、想像力を掻き立てられロマンを感じる要素にも思えます。
光秀誕生
光秀の生まれ年は、1516年または1528年、はたまた1540年ともいわれており定かではありません。
これも現代では考えられない話ですよね。1516年と1540年生まれでは24歳も差があります。
光秀の母が祈願したとされる「行徳岩」
生誕地として伝承される山県市中洞地区にある白山神社には、光秀の母がうぶ湯を汲んだとされる井戸があります。
また、神社近くの武儀川には、光秀の母が懐妊したとき、「生まれる子が男の子なら、3日でよいから天下を取るような立派な男の子を授けてください」と
祈ったと伝えられる「行徳岩」があります。
この時の祈りが、運か不運か、後の人生がそのまま反映されているのですから、行徳岩にはご利益があるのかもしれませんね。
後の人生を振り返ったならば、光秀の母も、「あのとき3日ではなく3年、いや10年天下を祈願しておけば良かった」と思い直したのではないでしょうか。
光秀ポイント~一途さ~
光秀は、最初の妻千草と結婚するがのちに死別、その数年後煕子と結婚しますが、この時代には妻(正室)以外に側室を迎えるのが一般的であったにも関わらず、
生涯煕子以外に側室を迎えなかったという一途な面も持ち合わせています。
光秀ポイント~信長家臣NO.1の築城名人~
総石垣で天守を持つ安土城、いわば「近世城郭」のルーツを作った織田信長ですが、安土城に先駆けたのが坂本城であり、この築城を任されたのが光秀です。
坂本城築城後には、丹波攻めの軍事拠点とした亀山城、福知山城、周山城の築城や、黒井城の改修を任され、近世城郭の発展のための大きな功績を残しました。
光秀ポイント~鉄砲の名手~
光秀は鉄砲の名手でもありました。
越前の朝倉義景に仕えた際、30センチ四方の的を45メートル離れた場所から100発撃ち込み、百発百中の成果を挙げた。
これを見た義景が、仕えて間もない光秀に鉄砲隊を預けたと伝わる。
光秀ポイント~文化人としての一面も~
信長は、茶会の開催には自分が認めた者しか権利を与えない「御茶湯御政道」という政策を取っていましたが、大きな功績を挙げた光秀に、茶会の開催を許されたのを機に光秀は没頭しました。
また、連歌も好み、数多くの連歌会を行いました。
こうして、築城や鉄砲など戦にまつわることだけでなく、文化にも精通し、元来の一途な性格からか、あらゆる方面においてその道を極めていく光秀でした。
本能寺の変、そして山崎の戦い
1582年(天正10年) 6月2日。対毛利戦で苦戦している羽柴秀吉を助けるために信長の命で中国方面へ進軍していた光秀が、突如方向を変え信長の宿泊している京都の本能寺を1万3千の兵で強襲する。
これが世にいう「本能寺の変」です。それからわずか11日後、中国地方から引き返す「中国大返し」を行なった秀吉と京都山崎の地で戦い破れ、
近江坂本城に落ち延びる途中、百姓の落ち武者狩りに遭い深手をおった光秀は自害し、55年の生涯を閉じたと伝わる一方、光秀の遺体は発見されることはありませんでした。
このことから、光秀が実はその後も生存しており、亡くなった場所についてもいくつかの説が存在しています。
光秀の墓、桔梗塚
これだけ熱心に信長に仕えてきた光秀が、日本史上最も有名な裏切り者と呼ばれることになってしまうのですから、
どうして本能寺の変を起こすことになったのか…ここは実に気になるところではあります。
仕えるときも、攻めるときも、そして愛する妻にも、考えてみるといつでも一途に生きてきた光秀。
そんな光秀の墓といわれている桔梗塚が、岐阜県山県市にあります。
光秀は、土岐四郎基頼と地元の豪族の娘との間に中洞で生まれ、その後、明智城主明智光綱の養子となりました。
また、山崎の合戦の際に亡くなったとされるのは影武者であり、中洞に落ち延びて住んでいたという説があります。
桔梗塚には、「光秀の墓」と「五輪塔」があります。
光秀の一途さとミステリーな部分、四百年ほど前の壮大なストーリーに思いをはせながら、岐阜の地を巡るのもよいものですね。
明智家と桔梗紋
桔梗紋は美濃土岐(とき)氏の家紋で、土岐一族を称した光秀もこれを用いました。
戦場で桔梗の花を兜に挿し、敵を大いに打ち破ったところから、戦勝記念として家紋にしたという説もあります。
桔梗紋には、どのような意味が込められているのでしょう。
桔梗の木へんを取り除くと、吉と更という文字になり、「更に吉」と縁起が良いことから、桔梗紋を用いるようになったという説もあります。
桔梗紋にまつわるもうひとつのストーリー
日光東照宮には、桔梗紋が無数に刻まれていますが、日光東照宮といえば、徳川家康のお墓でもあります。
光秀にはいろいろなミステリーがありますが、光秀は山崎の戦いの後も生きていたという光秀生存説のひとつ、
「南光坊天海」という徳川家の功臣として家康に仕えていた、というものです。
たとえば、天海は日光東照宮の近くに「明智平」という地名をつけたり、
家康の孫である家光の教育係「春日局」は、光秀の家臣の娘ですが、天海に初めて会った時、「お久しぶりです」と言ったとか。
徳川家には、世継ぎの名前は祖父から一字もらうという習慣があり、「家光」の家は「家康」からの一字もらっていますが、
「光」がどこからきたのか謎のため、「光秀」の「光」では?とも言われているのです。
桔梗紋のぐい呑みで、壮大な歴史に思いをはせながら
さて、さまざまなミステリーのある光秀の生涯ではありますが、
遥か昔の一人の武将を巡る数奇で壮大な物語に、思いをはせながら、光秀の家紋である「桔梗紋」入りの酒器で、自ら物語に入り込んでみませんか?
光秀ゆかりの地である、岐阜県山県市は水栓製造発祥の地です。
その技術を活かして作った純銅のうつわ、それが「美山銅器・ぐい呑み」です。
飲み物の味を引き出しながら、おいしくする「錫メッキ」、熱伝導の良さで持ちにくくなるのを防ぐ高性能プラスチックで
表面をコーティングすることで、耐衝撃性、耐薬品性も実現し、食洗器の使用も可能にしました。
カラーは全部で4色。底面に「桔梗紋」を刻印し、飲み物を味わいながら、遠い昔の壮大な歴史に浸ってください。